Piazza Italia dal 1995
ナポリとその近郊
ナポリと言えば、Pizza!
スパッカナポリを散策しよう
メルカート(市場)へ行こう
ナポリ交通&船(時刻表)
こんなに近い!フレグレイ平野へ
ポンペイとエルコラーノ
ベスビオ火山に登ろう
カプリ・イスキア・プロチダ
アマルフィ海岸
ナポリ発!現地発着ツアー
ソレントで海の見あるアグリツーリズモ
南イタリア家族でホームステイ
マテーラとその近郊
プーリア州
シチリア州
美味しい南イタリア
業務通訳・コーディネート
お客様の声
お問い合わせ先

ナポリを歩こう
こんなに近い!フレグレイ平野へ
ナポリ近郊の考古学ロード フレグレイ平野へ日帰り散歩

 Campi Fregrei(フレグレイ平野)。日本では知る人はほとんどいないくらい知られていない、ナポリ近郊の考古学ゾーン。ナポリの下町、モンテサントから私鉄クマーナ線で約30分ほどの場所に位置する。

古代ギリシャ人が入植し新しい町ネアポリス(ナポリの名前の由来)を構築したのは有名な話。 すぐそばに海、背後には緑、そして火山性の地質で温泉が湧くことで、 何より古代ローマ人たちお気に入りの高級リゾート地だった。歴代ローマ皇帝も多く訪れたフレグレイ平野では、ポッツオーリ、バイア、クーマなどに遺跡や見所が分散している。フレグレイ平野の見所は、イタリアで3番目に大きい円形競技場Anfiteatro Flaviaや、クーマの遺跡、当時の生活がわかる、ポッツオリのRioneterra(2015年現在修復中)などの遺跡だろうか…。またルクリーノ、アベルノ、フサーロ、ミセーノなど、火山活動で出来た湖が点在す地域でもある。ミセーノはローマ時代軍港として使われた場所で、軍曹プリニウスが活躍した場所でもある。

 
 
公共交通のアクセスがよくないこの地域の観光は専用車で!お問い合わせはこちらから…
 
◆ソフィアローレンの生まれ故郷 ポッツオーリ
 

Anfiteatro Flavio/フラビオ円形競技場

ナポリからクマーナ線Pozzuoli駅から山方面へ上り徒歩約15分程度。または、ナポリより地下鉄でPozzuoli下車。駅からVia Gironeを下り突き当たりを左。

Flavio(フラビウス朝時代)紀元1世紀頃の建築でポッツオーリの人口増加に伴い、当時そこにあった劇場の跡に建築された。古代ローマ世界の現存する円形競技場では、ローマのコロッセオ、カプア(ナポリとローマの間のローマの属州)に次いで3番目に収容人数の大きな円形劇場147mX117mで収容人数が約2万人。建築時期は、ローマのコロッセオとほぼ同時期に作られた。

三階層からできた伝統的な建築法で、客席は階段席、古代ギリシャ、ローマの柱礎の一種、アティック式の柱で装飾されていた。また、劇場地下通路や天井部分のヴォールトの保存状態が非常に良いことで知られている(2015年地下部分は一般公開されていない可能性もあり) 映画グラディエータで俳優ラッセル・クローが奴隷剣闘士として戦うシーンが馴染み深いかもしれないが、円形劇場はそもそも古代ローマの宗教行事など行っていたようだが、現存する一番古い円形競技場のポンペイ(紀元前80年頃)で行われたポンペイ人対隣町のノチェーラ人との戦いで多くの死者を出すなどしてその風習が以降建てられた円形競技場に伝わって行ったと見られる。

フラビオ円形競技場の情報は: こちら

 

Tempio di Serapide/セラピス神殿

ナポリからクマーナ線でPozzuoli駅下車。駅を出て正面海方向へ歩いた右角。徒歩約3分。

75mX60mの大きな市場の中央部分は柱で囲まれ、2つの中庭があり、海に向かって開かれていた。古代ローマ時代当時は物資を搬送する中継地点として中東やアフリカから物資が運ばれていた。

名前の通り、古代ヘレニズム期のエジプトの習合神【セラピス】が この場所から発見されたことで19世紀までは神殿として使われていたと考えられていた。 その後の調査で、古代ローマ時代には市場として使われていた事が明らかになった。

建物は2階建てで中心と海側に2つの中庭があり、それを囲むように商店が並んでいた。 行ってみるとハタと気がつくのは現在の地面よりかなり下にあることだ。 火山性地質であるフレグレイ平野は常に地面が隆起沈没をして、 柱の穴は海に沈没して貝が付着し、傷んだ為であることがわかる。また今現在でも地盤変動は変わらないので、行くタイミングによって水があったりなかったりする。

 
Ristorante / ポッツオーリのレストラン

魚市場の街として有名なポッツオーリには、週末になると、ナポリからわざわざシーフード料理を食べに来る人で賑わう。それほど人気が高い。メニューで注文する一般的なスタイルではなく、店のお任せコースがあり、前菜、プリモ、セコンドとあくまでも店がその日の仕入れで決めたメニューをいただくシステムが人気。前菜は10品程度、プリモが2品、そしてメインのセコンドへと流れるが、余りにも量が多いので、プリモで終わってしまう事もあるが、前菜で終わらせるのは失礼なので、お腹を空かして訪れて欲しい。
また、週末は混雑するので、予約をしてから訪れたほうが良い。

全部の店がこのシステムではなく、普通に自分の好きなものを注文して食べることができるレストランもたくさんある。数多くのシーフード専門店が軒を連ねる街なので、どこも美味しい。

お任せメニューのレストラン Il Tritone: こちら

 
◆海底に沈む優美な邸宅群 バイア
 

Parco Archeologico Sommerso di Baia/バイア海中考古学公園

 フレグレイ平野の町の中でも、商業港だったポッツオーリに対しミゼーノは軍港、バイアは、古代ローマ人たちの住居区域であった。1940年にバイアの沖合でRaimondo Baucherというパイロットが空撮した写真がきっかけとなり、1960年に入りやっと本格調査が始まった。

海底からは敷石が敷かれた道路や古代ローマ皇帝クラウディオの彫刻(現在はバイア博物館にて展示)などが当初の調査で見つかるが、既に現代社会のコンクリートでできた港の部分との境界などがあり、なかなか進展しなかったが1969年に重要と思われる2箇所の潜水調査を始める。

”Ulisse e compagno con l'otre”(袋を持ったオデュセウスと仲間)の彫刻が、建物の内部から発見されたが、1980年に皇帝クラウディオの彫刻が発見された場所の浸水発掘をはじめ現在は海中考古学公園として保護区域指定されている。

現在はいくつかのスポットをダイビングをしながらの見学が可能。(Villa dei Pisoni、Porto Giulio、Villa Protiro、Ninfeo sommersoなど)。遺跡は保護区域にあるため、見学には細かい規定があり、ダイビングはガイド付きで行われる。

詳しい情報は公式サイト:こちらまたは、こちら

 
◆ティレニア海初のギリシャ植民地 クーマ
 

Scavi di Cuma/クーマ遺跡

 クーマは古代ローマ時代より古く、紀元前8世紀頃当時人口増加により、危機的な食糧難に陥っていたギリシャが、計画的に送り出していた移民団により建設された。行き先は巫女の神託によって決めていた当時、イタリアのティレニア海側ではシチリア東海岸よりいち早くできた町。

まずはピテクーサ(現イスキア島)へたどり着いたギリシャ人たちは、その後目と鼻の先にあるこのクーマへ移民してきた。小高い丘から海を一望できる地形すなわち、敵の襲来をいち早く発見することができる場所は、都市を作るうえで欠かせないからだ。5世紀〜6世紀にかけて、上の町が滅び始め、最終的には915年のサラセン人襲来でクーマの歴史は完全に崩壊する。

その後シチリアのナクソス、アグリジェント、クロトーネなど、南イタリアとシチリア東部のギリシャ植民都市をMagnia Grecia(大ギリシャ)と読んでいる。

このクーマの遺跡はポンペイなどに比べると小さめで、バスなどはあるようだが機能してない事も多く、アクセスが非常に悪いことから、ナポリから公共交通で訪れるのはかなり難しい。このような諸事情でいつも観光客が非常に少ない。


 遺跡内に入ると、ネクロポリと呼ばれる古墳があった地下道が見られる。この地下道はアベルノ湖とつながり、アベルノ湖は、海とつながっていたため、敵が襲ってきたときに、この地下道を通り、海に抜け、逆に、敵を海上で包囲し、奇襲していた。この、ネクロポリの左手にはギリシャ世界の巫女、シビラ(アポロの神託を受け取る巫女)の洞窟がある。このトンネルの作り出すシルエットは光と影が交差して、とても素晴らしい。そんなきれいな場所に醜いシビラは、人にその姿を見られることを嫌い、トンネルの一番奥の、光の当たらない真っ暗な部屋にこもり、シビラをたずねてくる人々や、魔術師にあっていたという神話はさておき、このトンネルの穴の形が面白い。ローマ時代に入ってからは、アーチ型に作られていたトンネルも、ギリシャ時代は、このように彫り、トンネルが崩れないようにしていたようだ。

下の平地に位置するアポロ神殿はゴート族との戦いで崩れてしまい、現在遺跡の中に残るアポロ神殿は、古代ローマのアウグストス皇帝時代に修復されたもの。初代キリスト教時代に神殿はバジリカに変容された。付近には水をためるための貯水槽の跡もある。
 このアポロ神殿横から、緩やかに続く坂道が、ジュピター神殿だ。イタリア語では、giove(ジョーべ)。ちなみにギリシャ神話では、ゼウスの名前で語られている。時代の流れと共に、初代キリスト教時代に聖なる神殿から、教会へと変容したため写真手前の小さな穴は、貯水槽のように思われるが、洗礼のための聖水がおかれていた場所。内側には、装飾の大理石が今も残る。その2つのアーチ横には、小さな棺が残る。

詳しい情報は公式サイト:こちら

 
 
BACK
Copyright Piazza Italia2015 /Propretaria letteraria riservata Piazza Italia 2015 全部または一部の無断で複写することを堅く禁じます。